あかり

こんにちは

アンナチュラル

こんなタイトルにしといてぼくアンナチュラルまったく見てないんですけど、不自然な死って意味なんでしょう、アンナチュラルって。さいきん、自然体でいたいなあってよく思ってて、もうとにかく、ナンセンスなことがしたくない。ひとつたりと、できれば死ぬまでせずにすみたい、と思ってる。

ぼくたちはきっと不自然を強要されすぎている。

 

このブログの当初の用途は、できるだけアンナチュラルにしない、ナンセンスにしない、嫌いなことをしない、ということ。用途になっていない。とにかく、ナンセンスなことはしない、不自然になったらやめる、とにかく、好きなように吐き出す。今日はめずらしく2回オナニーした。2回致した。なんの話だ。賢者タイムの時っていつも、いつもとは違うことをしてまう。なんでだろう。で、そんなときに、何故か急に、不可思議な出会いが逢ったりするんだ。張り詰めている糸がブワーとほぐれて、その隙間からなにかが入って来るみたいに。

まあ、オナニーなんだけど。

 

言葉って難しくて、正しく語らないと、自分の存在すら間違って認識してしまうことがままある。自らが語った言葉で「わたしってこんな人間なんだ」という自意識を作ってしまう。そうやって、わたしがわたしでなくなってしまう。それは周りからの言葉であることもあるし、先祖の言葉だったりもする。そうやって不自然に語ることが一番ナンセンスなんだろう、と思いつつ、いつもそんなことをやっている気がする。別にこんなことはしたくないのだけれど、やっている。言葉は力。

ちょっと本旨忘れてきた。

 


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思い立てばいつでもストンと、社会の底や、雲の上に行けるようなダウナーにさいきん憧れてる。

不良的なダウナーじゃなくて、自由所属(フリー)であることを満喫できるような、自然体の極みみたいな、純粋なダウナー。

って自分で語っておいて、実はまだよく分かってないんだけれど。とにかく、税金払ったりとか、社会の歯車的ななにかを自己満足出来る程度にはしっかり満たしていれば、なにをしてもよくて、公道で走って叫び回ってもいいし、PINK GUYみたいな狂ったことをして白い目で見られてもいいし、アホみたいな歌を作ってみんなに笑われてもいい。っていうか、ほぼこれPINK GUYのことだな。

  

・・・・・・たとえば、宵闇の高速を突っ切って、夜の海にあの子の手を引いて行ったりしたい。「今日はこんなことしようぜ」なんて言って、たとえばふたりでちょっといいカメラを抱えて、昼間っから電車に揺られて、色んな場所を、その子を何も考えず撮りまくるだけの1日を過ごして、夜は現像した写真をふたりうつぶせに並んで、論評ともいえないようなゆるい反省会を開催したりする。そんで、いつもの日課だからっつって、夕食後の汚れたお皿はちょっとキッチンに置いたまんまで、透明な室内でずっと、その子の髪を撫でていたい。

なんだかだんだん眠くなってきて、日課SNSの更新なんかすっかり隅に置いて、ふたりでうとうとしたい。

 

さいきんJOJIがとても気になる。demonを見たとき、「なんだこれは」っていう衝撃を受けた。「本物だ」っていう衝撃があった。こんな打ちのめされる、って表現が的確なものに出会ったのは、中学生の時に出会ったsoukai maxさん以来だ、って思った気がする。あの理想的なダウナーに出会ったとき、「ああ、これだ!!!!」っていう感じで、なんかどうしようもなくハマった。

 

媚びていたり、気取っていてはどうしようもなくて、ただとにかく自己満足的な、解放的な、自由な、それでいて内外ともに腑に落ちるナンセンスの無さの極致というか。(ただ、そういう衝動のような衝撃って続かないもので、初動になれてくると、ただ彼/彼女が自分の中で特別な存在、っていう烙印だけが最後には残っていたりするんだよな、大抵の場合。)

  

ぼくはポップソングを作っているから、ナンセンスのなさとキャッチーさ、という白線に跨がって揺れることがおおい。

 

どれだけ個人的な作品だろうと、趣味/主義/趣向全開なスタイルだろうと、そこになにかナンセンスが介在しただけではっきりと興醒めしてしまう自分がいる。「自分でなにがしたいのかわかっていない」っていうのが透けて見えるやつとか、「後ろめたさを自己正当化しているのが見える」とか余裕で無理だ。あー、おれのことだ。ソッコーで目耳を閉じて、ついでに口も閉じて、そそくさと退散したくなる。自分自身の言動であっても例外はなく。

 

思うに、本物のポップというのがあるとしたら、それは通底した個人主義と他者を含む世界との調和にあるんじゃないかと思う。世間に媚びた曲とか、そういうのは実は全然違う。(大衆向けと "ポップ" は同じじゃない。)

 

ここ数日、部屋の模様替えを背もたれにして、音楽制作作業をしない口実にして安堵してる。作りたくない。いや、そんなわけはないのに、好きでもないソファーに横になって寝ていようとする。ほんとうに出来るんだろうかと思う。出来るだろうと思う。かと思えば、そんな辛さと苦悩のなかで作ったはずの、荒削りの原石みたいな昔の音楽を聴いて、「この才能は伸ばさなきゃダメだ。すばらしい才能だ。もったいない」なんて思い、挙げ句、自分の音楽に何度も救われさえしたりする。この葛藤苦悩はほんとうに正解なのか。

 

とにかく、こんな状況はどうにかしたい。

辛かったあの時期の自分は救ってやりたい。救うべきものはどこかの誰かだとばかり思っていたけれど、そもそも救うとかいう表現がナンセンスであって、まず発破をかけたり、火をつけてやったり、喜びに浸らせてあげるとしたら、まずは自分だろう。そんな当たり前すぎることを繰り返す。

 

そもそも、救えるものなんて、きっと自分しかいやしないし、どこまでも自分を慈しめるか、厳格にいられるか、そういう自尊の問題でしかない(たぶん人生って最終的に必ずそこに帰結する)。

知らないことはたくさんあるだろうけれど、自分の感覚を尊重する。いまどうしたいか、自分に敏感に伺いを立てる。あの子といっしょに、いくらでも喜びに浸っている。そんな世界。

 

ダウナーでいたい。ダウナーでいる。こういう謎の時間が何かの弾みになってほしいと思う。